行動を良い方向にナッジする(前編):行動経済学の基礎知識9

行動経済学の基礎知識

更新日:2023年3月15日
著者:関西学院大学 経営戦略研究科 教授 池田 新介

前回のインセンティブとモチベーションの話まで、私たちの判断や選択の失敗におけるメカニズムについて考えてきました。それでは、人々の行動を改善するにはどうすればよいのでしょうか。今回と最終回の次回では、行動経済学が提案するナッジという政策方法を紹介します。

1. ナッジとは

ナッジとは、人々が選択するときの枠組み(選択フレーム)や環境を工夫することで、行動や選択を望ましい方向に誘導するという、新しい政策の考え方です。もともと、ナッジは、ひじで合図する(Nudge)という意味です。2017年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーと、ハーバード大学ロースクール教授のキャス・サンスティーンが、この言葉を実践行動経済学(日経BP、2009年)というベストセラーのタイトルに使いました。それ以来、学問の世界でも、政策の現場でも、行動経済学の革新的な政策アイデアを象徴する言葉として定着しています。

ナッジが革新的なのは、規制や税金・補助金など従来の政策とは異なって、あくまでも選択の自由を残したまま強制することなく、人々の行動に介入しようとするところです。こうした自由主義的な政策の考え方を、リバタリアン・パターナリズム(自由主義的介入主義)といいます。いわば、行動経済学が考案した政策理論です。

以下では、ナッジによる政策の実例を、枠組みナッジ、情報ナッジ、補助ナッジの3つのタイプに分けて解説します(図1)。

図1:ナッジで行動を改善する
図1:ナッジで行動を改善する

2. 枠組みで誘導するー枠組みナッジ

ナッジのうち、最も代表的な方法は、選択の枠組み(フレーム)に工夫を加えることで、人々の行動や選択を変えようとする枠組みナッジです。例えば、選択デフォルトへの介入が挙げられます。

・選択デフォルト介入

選択デフォルトとは、意思表示がない場合に選んだと見なされる初期設定のことです。そもそも、意思決定したり、何かを選んだりすることは面倒なので、無意識のうちに選択をサボってしまい、結果的にデフォルトで選択してしまうことがよくあります。そこで、望ましい選択肢をデフォルトに設定しておくことで、人々の選択を改善できるわけです。

例として、各種年金への自動登録制の導入があります。公的年金や企業年金など、老後の生活を考えれば加入することが明らかに望ましい制度があっても、加入の意思表示をして、手続きをしなければならないとすれば、その面倒さから結果的に、多くの人が、加入しないことを選んでしまいます。そこで、加入資格が発生した時点で、自動的に加入登録がなされる仕組みにする(つまり、年金加入をデフォルトにする)のが、デフォルト介入によるナッジです。アメリカ、イギリスなどでは、公的年金や企業年金に、こうした自動登録制を導入することによって、加入率を飛躍的に向上させています。

デフォルト変更によるナッジが、安価なジェネリック医薬品(特許期間終了後の医薬品)の利用率を上げる上でも効果を発揮したことは、よく知られています。日本では、2008年に処方箋のフォーマットを変更して、「ジェネリック医薬品への変更可」をデフォルトにしました。その結果、ジェネリック医薬品の利用率は、2008年の18%弱から2022年の80%前後にまで、飛躍的に上昇しました。

臓器提供の同意率も、デフォルト介入によって大きな影響を受けていることが知られています。臓器提供への同意がデフォルトになっているヨーロッパの国々と、臓器提供の意思表示が必要な日本などの国では、臓器提供に同意している人の比率に大きな差があります。また、アメリカでは、インフルエンザのワクチン接種の予約日をあらかじめ割り当てることにより、接種率を上げることに成功しています。これも、デフォルトナッジの良い例です(参考:Chapman et al.、Opting In vs Opting Out of Influenza Vaccination、 JAMA 304、2010年)。

・主体選択(アクティブ・チョイス)制

デフォルトを変えることだけが、枠組みナッジではありません。デフォルトそのものをなくして、必ず選択の意思表示を義務付ける主体選択(アクティブ・チョイス)制を導入するのも枠組みナッジです。

先ほど、企業年金に自動登録制を導入するデフォルト介入の例を紹介しました。しかし、自動登録された年金加入者たちの多くが、年金積立率をデフォルトの低いレートのままにしているため、積立額が一向に増えない問題が新たに出てきました。それに対処するために行われた枠組みナッジが、主体選択制の導入です。

この新制度では、新入社員は雇用後30日以内に、企業年金への加入・非加入の意思表示と、積立率の選択をしなければなりません。新制度の導入によって、将来の退職貯蓄を主体的に計画していくことがナッジされ、加入率とともに、年金積立率も大きく上昇したことが報告されています(参考:Carroll et al.、Optimal Defaults and Active Decisions、QJE 124、2009年)。

3. 情報で誘導するー情報ナッジ

食品に含まれるカロリー量のように、意思決定に必要な情報を提供したり、規範になるような行動を表示したりする情報ナッジもよく使う方法です。例えば、納税者に「あなたの地域の10人中9人は期日内に納税しています」と社会規範を示唆することによって、納税期日の遵守率が向上したことが、イギリスで報告されています。

納税の相談会に来場した親に、子供が大学に進学する場合に受けられる学生生活援助の情報を提供し、手続きを手助けする事例も情報ナッジです。これによって、低所得者層からの大学進学率を引き上げる効果があったことが報告されています。

最も劇的な例は、USLA(United States Lifesaving Association)の2人の研究者が行った、省エネ行動への情報ナッジの効果です。図2は、事前に節電の効果について情報を提供した場合の電力消費への影響を示します。ここでは、発電が環境や健康に及ぼす悪影響についての科学的な情報を提供することによって、家計のエネルギー消費を平均8.2%(子供のいない家庭)~19.1%(子供のいる家庭)、減少できたことが報告されています(参考:Asensio and Delmas、Nonprice Incentives and Energy Conservation、PNAS 112、2015年)。

図2:節電の環境・健康改善効果の情報を流すと節電率が上がる(参考:Asensio and Delmas、Nonprice Incentives and Energy Conservation、PNAS 112、Fig.1)より筆者作成
図2:節電の環境・健康改善効果の情報を流すと節電率が上がる(参考:Asensio and Delmas、Nonprice Incentives and Energy Conservation、PNAS 112、Fig.1)より筆者作成

4. 自制を助けるー補助ナッジ

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